オバマ大統領の広島訪問の前日に当たる26日の国際面に、 日系アメリカ人の被爆経験に関する記事を掲載した。
原爆投下時に広島には数千人の日系米国人が住んでいた。 その殆どが原爆の犠牲になったが、 約千人が今でも生き残っているそうだ。彼らは差別を気にして、 自分が被爆者であることを語ってこなかったが、 ようやく重い口を開き始めたという記事。
WSJ日本版にも同様の記事が掲載されたが、日本版の記事では、 「広島、長崎では10~25万人が原爆で犠牲になったこと。」「 10万人を超える日系アメリカ人が強制収容所に送られたこと。」 「日系アメリカ人の被爆者は、 日本政府からは賠償金と医療面での援助を得ているが、 米国政府からは核実験で被曝した退役軍人や、 ウラン採鉱で被曝した人とは異なり、 彼らを正式には被爆者として認めることすらしていないこと。」 等、米国にとって都合が悪いことも報じられている。一方、 米国版では、こうした部分は(多分意図的ではないと思うが) 割愛されている。このため、 日本版と米国版でかなり読後感が異なるのが気になる。
(WSJ日本版の記事を一部修正して、 下記に引用させて頂きました。)
*****以下本文*****
オバマ大統領は27日、 現職の米大統領として初めて広島を訪問する。71年前の原爆投下 で被爆しながらも生き残った約1000人の日系米国人は、 この訪問を独特な思いで見ることになるだろう。 彼らは自分の国が投下した原爆に苦しめられたのだ。
その中の一人にヤマオカ・メイさん(87)がいる。 カリフォルニア州ローダイで生まれたヤマオカさんは第2次世界大 戦がぼっ発した当時、日本の学校に通うため広島に滞在中だった。 1945年の原爆投下を生き抜き、 その後カリフォルニア州の自宅に戻ったヤマオカさんはそこで、 この最も辛い記憶を60年間封印してきた。
ヤマオカさんがインタビューや家族へ宛てた書き物などを通して、 自身の経験を詳しく語り始めるようになったのはここ10年くらい のことだ。父親と一緒に2日間妹を捜し回り、 焼けただれてボロボロになった遺体の山の上にようやく死んだ妹を 見つけたこと。妹だと分かったのは、 米国で買った肌着に施されていた刺しゅうが目に入ったからだった こと――。
被爆した影響で体が弱りつつあった父親は高校を卒業させるために ヤマオカさんを米国に帰した。戦時中、 米国で日系人の強制収容所に入れられていた経験を持つヤマオカさ んの夫は、家族が日系であることを話したがらなかったという。
ヤマオカさんは「(夫は)差別を肌で感じてきた。 米国人は原爆について聞きたくないと思っていると彼は話していた 。だから多くを語らなかった」と話す。
オバマ大統領の広島訪問は、戦後の日米関係の劇的な変化と、 核の不拡散という重要な政策目標の象徴となるだろう。 大統領が原爆投下について正式な謝罪をしないことは、 少なくとも一部の被爆者にとっては問題ではないようだ。
ハワイ生まれの被爆者であるサラシナ・ジュンジさんは「 オバマ大統領は謝るべきかどうかと言われているが、 一番お願いしたいのは、 原爆の被害がいかに惨めなものだったのかを理解してもらいたい」 ことだと話す。サラシナさんは朝鮮戦争で戦った経験も持ち、 オバマ大統領に絵はがきを送って広島訪問を促す日系米国人の取り 組みを率先した人物である。
20世紀初頭、日本は多くの移民を米国に送った。 渡米して新たに米国人になった日系移民たちは裕福になると、 子供たちに言葉や文化を学ばせるため、 祖国に数年滞在させることも多かった。
ミシガン州立大学で日系米国人の被爆者に関する研究を行っている ワケ・ナオコ准教授によると、 日本では学徒動員に積極的に参加した若い日系米国人もいた。 一方、上空に飛来する米軍のB29爆撃機を、 戻りたいと切望する国からの友人や救済者として眺めた人もいたと いう。
広島と長崎には数千人の日系米国人が暮らしていた。 原爆で多くが犠牲となった。生き残った人々の多くは「被爆者」 として米国に戻った。そして彼らは差別の対象となった。 数十年もの間、多くの被爆者はその事実を隠し通した。 就職や結婚に不利になるのを恐れてのことだ。
ヤマオカさんは9歳だった1938年に一家が日本に渡ったときの ことを語ってくれた。カリフォルニア州の3軒の家は親戚に預けて きた。そして戦争がぼっ発した。
1945年8月、ヤマオカさんは学徒動員で働いていた。 原爆で命を落とさなかったのは、 タバコ工場の中で高校の同級生と一緒に作業をしていたためだ。1 3歳だった妹のマナさんは屋外で作業をしていた。 ヤマオカさんと父親は長い捜索の末に、 マナさんの遺体を爆心地の近くで見つけた。
ヤマオカさんは「私は米国人を少しも恨んではいない。 あれは戦争だったし、 両国とも自分たちは正しいことをしていると考えていた」と話す。 「ただ、広島が原爆の標的となったのは不運だった。 私たちは言わば一種のモルモットになった」