Saturday, February 4, 2017

日本の企業幹部はパックマンを大ヒットにつなげた【A8面(死亡記事面)】

ナムコの創設者である中村雅哉氏が1月22日に死去されたが、WSJは彼の死亡記事を2月4日の死亡記事面で大きく取り上げた。


中村氏がナムコを創設し、同社が「パックマン」というその後のゲーム産業の先鞭となるゲームとなったことを詳しく説明している。アメリカ人は、こうした全く新しい産業を築いたパイオニアが本当に好きなのだと思う。中村氏の死去を、日本の新聞よりも大きく取り上げ、彼の業績を心から褒め称えている。

***** 以下本文 *****
中村雅哉さんの会社は、アーケードゲームのキャラクターであるパックマンを生み出し、日本やアメリカの子供達の余暇時間を、おもちゃの銃や木の乗り物の時代から、家庭用コンソールとコンピュータグラフィックスの時代へと変化させた。
彼の会社がナムコ(Namco)という。これは、Nakamura Amusement Machine Manufacturing Co.の略称だ。この会社は、1980年代のアーケードゲームブームの火付け役となるビデオゲームを作った。
彼は、1月22日に91歳で亡くなった。
中村雅哉氏は、1925年12月24日に東京・神田で生まれた。現横浜国大の造船科を1948年に卒業した後、父と共に、日本橋高島屋で、空気銃の販売と修理に携わった。そこで、未来の妻となるミツコと出会う。1996年に新聞のコラムで、彼は、友人が彼女のことを「デパートでの全ての取引の中で、最大で最良のもの」だと言ってくれたと語った。
1955年にナカムラ氏は自分の会社を立上げ、横浜のデパートの屋上に、2枚のコインで動く揺り木馬を設置した。彼は、さらに他のデパートへも広げ、乗り物を開発、製造する工場を開設した。
「子供達は1回5円で乗れるが、1回乗るだけでは売上が増えなかった。」と2007年の雑誌のインタビューで彼は語っていた。「もし、母親になんて可愛い男の子でしょう!などというと、母親は子供にもう1回乗り物に乗らせてあげるのです。そうすれば、全員が幸せです。もう1回乗り物に乗れた子供も、子供を褒められた母親も、そして売上が増えた私も。」
中村氏は、1974年にアメリカのアタリの日本子会社を買収して、仮想エンターテインメントの世界へ飛び込んだ。
1980年5月22日、会社は日本でパックマンをリリースした。それは、ピーッという音と、亡霊に追われ、黄色い点を食べつくすために迷路を走り回るパックマンディスクが特徴だった。次のレベルに行くには、パックマンは全ての点を食べねばならなかった。
そのゲームは日本で人気だったのはもちろんのこと、アメリカでも大ヒットとなった。パックマン弁当、パックマンTシャツ、パックマンボードゲームなどが出現した。投資銀行は、ライバルを飲み込む敵対的買収を繰り返す会社の戦略をパックマンと呼んだ。
「パックマンは、私とナムコに世界とビジネスをするためのドアを開けてくれたキャラクターとしえ記憶されるべきです。」と中村氏は1996年に新聞のコラムに書いた。
2005年には、ギネスが、パックマンを、世界で最も成功したコインで動くアーケードマシンとした。
中村氏は有名大学からの学生をリクルートしなかった。あまり成功していない生徒の方が創造力があることを知って、彼はリクルート用のパンフレットに「成績がCだった構うもんか。」といったフレーズを入れた。
パックマンのキャラクター自体は、25歳のナムコのクリエーターのイワタニトオルが創り出したものだ。彼は、パックマンの名前を、口を動かす日本語の擬態語の「パクパク」からとった。イワタニ氏は、彼が働いている大学のスポークスマンを通して、この記事のためインタビューを断ってきた。
「この時のナムコの業績が家庭用コンソールを普及させた。それが最終的には日本のゲーム産業を築き上げた。」とゲーム雑誌の発行者であるファミ通グループの代表であるハマムラヒロカズ氏は言う。
中村氏は、ビデオゲーム以外の娯楽や行楽ビジネスに投資をした。1986年には、イタリアントマトというレストランチェーンを買収した。
日本で最も古い映画スタジオの日活が、日本のバブルが弾けた後に、破産を申告した際に、中村氏は救済に動いた。
「マルチメディアの時代には、ビデオをどう使うかという知識を持つことに、大いに意味があった。」と1996年のコラムで書いている。「それは、娯楽ビジネス全体の、広く、全体を俯瞰した視野を持つためにも役にたつ。」ナムコは2005年に会社を売却した。
同じ年、パワーレンジャーの玩具メーカーであるバンダイがナムコを買収し、バンダイナムコホールディングスを設立した。
「もし仕事を渋々やっているのなら、意味がない。楽しまなければならない。」と、バンダイナムコの会長を退任する2007年に雑誌のインタビューに答えて、中村氏は言った。