8ヶ月の時に被爆し、その後、広島の悲惨な体験を日米の学生に語り継いでいる近藤さんという女性について、WSJは広島原爆の日の国際面で取り上げている。
日本に平和主義がしっかりと根付いているのは、近藤さんの様な戦争経験者が語り部として惨状を語り継いでいること、授業や報道などでも、繰り返しこうした惨状が取り上げられていることが大きいとしている。そして、安保法案を成立させようとしている安倍首相もこうした平和主義のうねりの中で立ち往生していると報じている。
(ほぼ同じ記事がWSJ日本語版に掲載されていましたので、下記の文章はそこから引用っせて頂きました。)
***** 以下本文 *****
近藤紘子(旧姓:谷本)さんは毎年、ところどころ破れた小さなピンク色の服を持って生まれ故郷を旅する。それは近藤さん一家が70年前、世界初の原爆投下を生き残った日に近藤さんが着ていたものだ。
近藤さんは当時、生後わずか8カ月だった。近藤さんは8月6日の広島原爆の日の時期に行われる語り部ツアーで、自宅を破壊し何十年も近藤さんを悩ませている惨状を学生たちに語っている。
10代の頃、裸でステージの上に立ち、放射線の人体への長期的影響の兆候を確認しようとする医者や科学者からこと細かくじろじろ見られたとき、どれほどの屈辱を感じたか。あるいは、米国人の婚約者の親族が被ばくした近藤さんは子どもが産めないと考えたため、婚約者に結婚式の直前に見捨てられたときの思い。近藤さんは一般の米国人についても語る。彼らは被爆者のために食糧を送り、家を建て、戦後何十年にもわたって「精神養子縁組」でつながった広島の息子、娘たちの誕生日に小切手を送り続けた。
近藤さんは学生たちを父親の教会があった場所にも案内している。原爆投下後、教会は倒壊し、近藤さんはがれきの下敷きになった。また、すさまじい破壊から逃がすため、父親が負傷者―中にはひどいやけどをした人もいた―を手漕(こ)ぎの舟で何度も運んだ川や、数千人が避難を求めた赤十字病院へも学生たちを連れて行く。
米国のジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏が原爆投下直後の広島の様子を描いた著作「ヒロシマ」に近藤さんは短く登場している。この本に採り上げられたことで、近藤さんは広島の使者としての道を歩むことになった。
近藤さんの父親、谷本清氏は米国で教育を受け、日本の教会で牧師をしていた。ハーシー氏が1946年春に広島を訪れたとき、谷本氏は原爆投下直後の恐怖と混乱を詳しく語ってくれた。
ハーシー氏の「ヒロシマ」には、「やけどをした人、血の流れる人の列また列」の脇を通ったり、死にそうな人たちのために水を探し回ったり、舟の上で死んでいる男性にわびてから遺体を移動させて生存者を運んだりした谷本氏の姿が描かれている。
近藤さんは母親と共に牧師館の下敷きになった。隙間から差し込む「一筋の光」を見つけた母親が30分ほどかけて穴を開け、近藤さんは外に押し出された。
ハーシー氏の記述によると、谷本氏は妻子と再会しても、「気分的に疲れきっていたので、もう何事にも驚かない。夫人を抱きよせもせず『ああ、無事だったか』といっただけである」。「ヒロシマ」は1946年8月にニューヨーカー誌に初掲載された。広島と長崎が世界で唯一の被爆都市となった翌年のことだ。
1945年、米国は東京をはじめとする日本の主要都市を爆撃し、沖縄を占領した。しかし、日本は絶望的とみられる戦況にもかかわらず、降伏の要求に抵抗した。
米国は原爆投下で戦争を早く終わらせ、日本本土侵略を回避しようと考えた。日本は長崎への原爆投下から6日後、降伏した。米国は核兵器を使用せずとも同じ結果を達成できた可能性があるとの議論は、今も歴史家の間で絶えない。
ハーシー氏と知り合ったことで谷本氏は戦後の米国で反核運動に担ぎ出される。
谷本氏は1955年の訪米時、ロサンゼルスに招かれ、「This Is Your Life(これがあなたの人生だ)」という米NBCのテレビ番組に出演した。
番組は谷本氏の家族を秘密のゲストとして招待。近藤さんは家族とともに父親に内緒で渡米していた。秘密のゲストはもう1人いた。広島に原爆を投下した米軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」の副操縦士、ロバート・ルイス大尉だった。
10歳になっていた近藤さんはしばらくルイス大尉を見つめていた。ずっと「悪いやつを蹴っ飛ばしたりかみついたり、たたきたい」と思っていた。
かわりに、近藤さんはルイス氏のところに歩いていって、その手に触れた。その直前、近藤さんは、番組の司会者に原爆を投下したあとどんな気持ちだったかと聞かれたルイス氏の目に涙があふれていることに気付いていた。近藤さんの記憶によると、ルイス氏は飛行日誌に「My god, what have we done?(ああ、私たちはなんてことをしてしまったんだ)」と書き込んだと答えた。
「私が変わった瞬間だった」。近藤さんは今年初め、日米の若い芸術家グループにそう語った。「私は自分に言い聞かせた。『神様、この人を憎んだ私を許してください。憎むなら戦争を憎むべきなのです』と」
近藤さんは後に牧師となった日本人男性と結婚し、2人の女の子を養子に迎えた。近藤さんは現在、頻繁に日米の各地を訪れ、自らの体験を語っている。
日本に平和主義が深く根付いているのは近藤さんや同じ意見を持つ人々がメッセージを伝え続けてきたからだ。日本人は何世代にもわたって授業や報道、年上の親類との会話から第2次世界大戦時の日本各地の惨状について学んでいる。
安倍晋三首相は今年、中国の台頭など日本の安全保障に対する新たな脅威への対応を目指し、海外での自衛隊の役割を拡大する法案を議会に提出した。首相はこのとき、平和主義の力を感じた。政府は法案を提出するため、日本の敗戦後に米国の占領軍が起草した憲法の解釈を変更しなければならなかった。
安倍氏が、9月中の成立が可能になる7月16日の衆議院での法案可決を決断すると、内閣支持率は40%を割り込んだ。