Saturday, June 3, 2017

米国の大胆さがミッドウェイで日本を沈めた【A13面(専門家投稿欄)】

75年前の64日にミッドウェイ海戦が行われたが、WSJ63日の紙面に、ミッドウェイ海戦の勝敗を分けたのは、日米のリーダの差にあったとする専門家の意見を掲載した。



日本軍司令官の山本五十六は、戦いの前日まで愛人と戯れ、艦内でも将棋に興じていた。一方、米国軍司令官のニミッツは、冷静な判断力と大胆な行動力を持ち合わせていた。また、米国軍には優秀で大胆な部下がいて、ニミッツはうまく部下を使いこなしていた。この記事の投稿者によれば、米国が日本に勝利したのは、このリーダーの資質の差による。

***** 以下本文 *****
75年前の64日、150隻余りの日本の軍艦と、250機の戦闘機、25名の海軍将官が、オアフから1,300マイル北西に位置する環礁へと向かっていた。第二次世界大戦で最も重要な海戦であるミッドウェイ海戦が目前に迫っていた。
大和は世界で最も大きな軍艦だ。そこに搭乗していたのは、山本五十六将軍であった。彼は毎晩、自分の部屋を出て、将棋に興じていた。港での最後の夜は、愛人(芸者)である河合千代子を過ごした。別れの際に彼は彼女にこんな歌を贈った。「うつし絵に 口づけをしつつ幾たびか 千代子と呼びてけふも暮しつ。」
しかし、彼の目下の懸念はそんな感傷的なものではなかった。6月にわたって、日本海軍は、真珠湾からセイロン(現在のスリランカ)までの8,000マイルに及ぶ海域で、連合軍と戦っていた。山本は、米国艦隊はかなりの打撃を受けてはいるものの、未だに危険だと感じていた。マクベスを例にとって「我々は蛇を焼きはしたが、殺してはいない。」と言っていた。
山本の米国側のライバルはニミッツ将軍であった。彼は輪投げをして緊張を解いていた。冷静で、物静かで、保守的な彼が言った最も過激な言葉は「今こそやる時だ。」だった。ニミッツは、彼の軍隊を戦いのために整列させ、間違いなくやってくるであろう日本を待った。
その数週間前に、オーストラリア方面に日本が攻撃をしかけてくることが予期されていたので、米国はニミッツが指揮する航空隊に南太平洋に行くことを命じていた。次に日本が攻撃を仕掛けてくるのは、ハワイやサンフランシスコ、サンディエゴなどではないかとを恐れる者もいた。さらには、パナマ運河、アラスカ、シベリアなどが攻撃されると予測する者もいた。
そんな中、真珠湾の艦隊本部の近くの窓のない地下室では、ジョー・ロシュフォート司令官の下、暗号解読者が傍受した日本の無線を入念に調べていた。「独立心が強く、政治的には中立で、ひたむきな性格のロックフォートが、地下室を離れるのは、トイレに行くか、着替えるか、たまに食事に行く時だけだった。普段の食事はコーヒーとサンドイッチだけで済ませていた。」とある関係者は回顧した。何週間にもわたって、彼が寝たのは、ごみごみした部屋の隅に置かれた簡易ベッドの上だけだった。
ロシュフォートのチームが解読できたのは、平均して全メッセージの1/8に過ぎなかった解読出来なかった部分は、勘で何とかしていた。例えば、日本軍のメッセージの中には、「AFと呼ばれる場所を示す暗号が含まれていた。AFとはどこなのか?ロシュフォートはAFはミッドウェイを意味すると結論づけた。このロシュフォートの結論をワシントンの当局は嘲笑った。何故、日本が小さな岩礁を占領するために、大艦隊を派遣するというのか?
ニミッツは、太平洋の数百万平方マイルを管轄していたが、日本軍を駆逐する様なことはあまりせず、むしろ放置した。これは、彼の艦隊だけでなく、太平洋戦争全体を危機に晒す危険性があった。後に彼は「必死になって考える必要があった。」と語っている。
海軍の重鎮たちが迷う中、ニミッツは、常識では考えられないことを言うロシュフォートに賭けてみることにした。彼は、3つの艦隊を南太平洋からミッドウェイに戻した。時間が不足していた。米艦隊ヨークタウンは、珊瑚海での戦いで損傷し、10マイルの油膜を引きづりながら、真珠湾に戻っていた。修理には3ヶ月程度必要と推測された。
3日で修理を終わらせろとニミッツは命令した。1,400人の溶接工と取付工が、修理のために派遣された。3日後、ヨークタウンはミッドウェイへの航海を開始した。
日本が64日に接近してきた時、ニミッツの艦隊は待ち受けていた。しかし、戦いはひどい始まり方だった。機敏に動く日本のゼロ戦が、海軍の魚雷を全滅させた。米国の急降下爆撃機は敵の艦隊を見つけるのに苦労していた。
しかし、その時、もう一つの幸運な事態が訪れた。日本の艦隊を探して飛行を続け、燃料も無くなりかけている頃、急降下爆撃機部隊のリーダーであるウェイドマクラスキーは日本の駆逐艦がスピードを上げているのを見つけた。この駆逐艦は艦隊に向かって急行しているに違いないと思い、彼はこの駆逐艦を追跡した。彼の勘は当たった。マクラスキーの爆撃機部隊は、2隻の運搬船に不意打ちをくらわせた。他の部隊が到着し、3隻目にも攻撃を加えた。こうして、数分のうちに、3隻すべてが炎に包まれ航行不能となった。
海軍パイロットのサムアダムスは、4隻目を探していたところ、飛龍とその護衛艦を発見した。「1隻の運搬船、2隻の軍艦、3の重巡洋艦、4隻の駆逐艦!」彼は、無線士で攻撃手であるジョセフキャロルに命じ、このニュースを米国艦隊に打電させた。「20ノットのスピードで、北へ向かえ!」
「アダムス上官!」キャロルはその命令を遮った。「ちょっと待って頂けませんか?ゼロ戦が我々の後方にいます!」キャロルはすぐさま敵機を振り切り、その後に報告の打電を完了した。その後すぐに、飛龍は炎に包まれ、沈没していった。
しかし、アダムとキャロルは二人とも、故郷に帰ることは出来なかった。その翌日の別の任務で戦死したのだ。応急修理をしたヨークタウンは、爆撃され、魚雷攻撃を受け、沈没した。しかし、驚くべきことに、6ヶ月に及ぶ、太平洋での日本の電撃作戦は止まり、二度と再開されることはなかった。
ミッドウィ海戦を扱った本には、「ミッドウェイの奇跡」とか、「信じられない勝利」などのタイトルが踊っている。多分、その通りだろう。しかし、神の意思と偶然は不可解だが、判断と大胆さは明白だ。「敵は、戦う意思が不足している。」と日本の自信過剰の山本五十六将軍はひどく誤った判断していた。ニミッツは、上司が躊躇する中でも、大胆な行動に出た。その大胆な行動により、彼の艦隊は、戦力不足にもかかわらず、先制攻撃を加えることが出来たのだ。そして、彼の部下の水兵たちやパイロットたちが、それを確実に遂行したのだ。
3週間後、ニミッツは、彼のワシントンの上官と打合せをするために、サンフランシスコへ向かった。その際に彼の乗っていた飛行艇が、着陸の際に、海上に浮かぶ残骸に当たって、ひっくり帰った。彼は震えはしたが、怪我はしなかった。ひっくり返った飛行艇が沈没していく間、彼は救助船の甲板に立って、救助作業を見ていた。それを見た救助艇の操舵手が「おまえ、座れ!」と叫んだ。しかし、すぐに彼は大きな間違いを犯したことに気付いた。ころがりながら、ニミッツに近寄って謝罪した。ニミッツは操舵手の指示に従ってゆっくりと座った。「自分の言っていることを曲げるな!」ニミッツは言った。「君の言っていることは、正しい。」

(この記事の投稿者のガーネット氏は、ゲティスバーグ大学の英文学教授です。)